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渋沢栄一の足跡をおって

渋沢栄一の足跡を追って

           3月1
                        渋沢栄一肖像
「日本の資本主義の父」と言われる渋沢栄一が新1万円札の顔になる。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」など、坂本竜馬や西郷隆盛等はカッコウ良く見えた。 明治は薩長を中心に語られるが、栄一のような人がいたから財政や経済の発展があったと思う。

  「数人の資本家が儲かるのではなく、みんなが良くなければ国は富まない」との精神である。栄一が関わった約500の会社、団体があると言われている。

  また 教育や福祉、医療、文化などの社会事業、民間の立場で経済外交に携わり、ノーベル平和賞に2度の候補に推薦された。栄一の生誕地が自宅から近いこともあり、どのような人物か足跡を追った。




3月2
                         (渋沢栄一記念館)
渋沢栄一は1840年武蔵の国棒沢群血洗島(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれた。血洗島とは物騒な地名の由来は、昔あった合戦で武士が切り落とされた片手を洗ったなどと諸説がある。

 渋沢栄一記念館は、書や手紙をはじめ当時の写真、伝記資料等が展示されている。




3月3
                       (旧渋沢邸・正面)
父・市郎右衛門は、米、麦、養蚕等を生業にしていたが、藍玉作りに力をいれていた。

 藍玉は、ほおずきの葉を一回り大きくしたような「藍の葉」が50cm~60cm程の丈に育ったら、農家から藍葉を買い入れ、庭で裁断機にかけ、茎と葉を選別する。選別された葉は天日に干して乾燥され保存される。

 そして 保存された藍葉を水だけかけて発酵を施し、5日~7日ごとに水を打ち混ぜる「切り返し」という作業をくり返して、灰汁を入れ、

臼で突くと黒い餅のような物が出来る。それを20cmほどの団子にしたのが藍玉である。父は藍玉の製造技術に優れ、信州、上越、上州方面の得意先の紺屋に卸した。




3月4
                         (中の家の若き日の栄一像)
栄一が14歳頃になると一人で近隣の村々を廻って藍葉の買い付けや藍玉の得意先の紺屋をまわり商売の面白さを体験してゆく。



3月5
                       (栄一が寝泊りした部屋)
栄一が藍玉を紺屋の得意先に卸しに行くときは、10貫目の藍玉の俵を馬の背に4俵積み、雪の峠道を越えて信州の馴染みの紺屋に届けることもあった。

 渋沢家に残る藍玉の売上台帳によれば、顧客である紺屋の数は100軒程で一軒当たりの売上高が平均108両であったといわれているから年間総売上高は1万両あったことになる。藍葉の買い付けから藍玉の卸しまで携わり商売が面白くなりだした14歳から20歳の頃である。




          3月6
                        (24歳頃の栄一)
アメリカ東印度艦隊を率いてペリーが浦賀に入稿。幕府の古い政治、体制が行き詰まり尊王攘夷運動がおこる。

 栄一も尊王攘夷運動に深く共鳴して同士を募り、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちなどの計画を立ち上げる。 
 しかし 京都情勢の探索から戻った親友の尾高長七郎の説得で計画を断念する。

 その後 一橋家用心、平岡円四郎の仕官の誘いの言葉に、倒幕を心ざしていたが、熟考のすえ、一橋家に仕官する。そして 一橋慶喜が15代将軍となり幕府側の要人になる。




         3月7
                  (パリ万博博覧会にて)
 パリ万博覧会に15代将軍となった徳川慶喜の実弟昭武が派遣されることになり栄一は随行員の一員として同行する。

 慶応3年1月11日、徳川昭武一行29人はフランス商船アルヘー号に乗り込み朝9時半に神戸港を出航。途中サイゴン、シンガポール、スエズ等に寄港して3月7日に、日本を出てから55日目でパリに到着する。

 パリ・マルセイユに上陸して西欧文化の実態を目にして驚嘆を重ねるばかりである。栄一は想像を絶する西欧文化の姿に気おくれされながらも、好奇心を火のように燃やしていた。パリの夜景は別世界である。

 路傍には青、紅、紫、白、金、銀などのさまざまな色彩のギヤマンに包まれた瓦斯燈が昼間のような光芒を放ち通行人がにぎやかに行き交う。パリ全市に水道と瓦斯道が通じていること。ー栄一はどうすればこのような文物が富み栄える都が出来るのかと思う。

 軍港でドックの軍艦、諸工作機械、発砲訓練、溶鉱炉、製鉄所、反射炉などの設備を見て回り、また 凱旋門、シャンゼリゼ博物館、植物園、動物園、そして 大病院を見学した。栄一はどうすればこのような富が栄える都市が出来るのか・・・。




         3月8
                 (シルクハットを被った栄一)
銀行家・フロリ・ヘラルトから資本主義の仕組みを詳細に教えられ乾いた砂が水を吸うように貧欲に覚える。

 フロリ・ヘラルトは銀行家としての豊富な体験と膨大な知識を惜しみなく栄一に伝える。銀行の仕組みはもとより、証券取引所、株式、公債など。まったく知識のない栄一が充分納得するまで親切丁寧に教える。

 そのうえで銀行、証券取引所へ栄一を案内して実際の業務をみせて理解させた。栄一を導いたフロリ・ヘラルトは日本に資本主義をうちたてる原動力となった恩人である。

 その頃、日本では大政奉還により体制が変わり、明治新政府から帰国命令がでて1年9ケ月ぶりに帰国する。




         3月9
                      (実業界へ)
帰国して大蔵省に入り、手がけた仕事は多岐にわたる。廃藩置県の後始末、租税制度、郵便制度、貨幣だっ換、公債発行などと多岐にわたる。

大蔵省を辞して実業界に身をゆだねる。第一国立銀行(現みずほ銀行)、王子製紙、清水建設などの500社ほどに携わる。




3月10
              (ドイツ人煉瓦技師チーゼの住宅兼事務所)
栄一らによって明治10年創立された日本煉瓦製造㈱は、日本最初の機械式煉瓦製造を行い、東京駅丸の内駅舎、碓氷峠鉄道橋梁等の建設に使用された。

ドイツ人煉瓦技師ナスチェンテス・チーゼの指導のもと煉瓦焼成室が長円状に連なるホフマン輪壺と乾燥室などを完成させる。




3月11
                         (煉瓦資料室)
会社設立からの歴史が分かります。会社設立に関わった栄一ら5人の写真と名前、

そして 東京駅丸の内駅舎の設計に携わった辰野金吾の名もみられる。




3月12
                            (ホフマン輪壺の内部)
煉瓦製造要領は
①壺つめ:壺の内部を18部屋に分け、1部屋に約18000個の煉瓦を詰める。
②投炭:燃料である粉炭を壺内に向け投入。一度点火すると3交代制で火を絶やすことなく煉瓦を焼く。
③乾燥部室で煉瓦素地を乾燥させる。
このような作業工程で煉瓦が焼かれる。




3月13
                         (備前梁鉄橋)
工場で焼かれた煉瓦は、小山川から利根川に下り江戸川を経て隅田川を船で東京方面へ運ばれたが船は気象条件に左右されるなど効率が悪く、深谷駅から工場までの約4kmの日本初の専用鉄道が敷かれた。



3月14
                        (遊歩道・あかね通り)
深谷駅から工場までの会社専用鉄道跡は遊歩道となって、年配の方や子供連れ等がゆっくりと散歩している。



3月15
                    (東京駅に使用された煉瓦の請求書)
東京液丸の内駅舎は辰野金吾により明治36年に設計にはいり、大正3年完成した。使用された煉瓦は8,332,000個を納入した。金額は・・・と記載されている。



3月16
                            (深谷駅)
深谷駅の現駅舎は明治16年の開業から三代目となり、ミニ東京駅とも呼ばれている。



3月17
                          (渋沢栄一像)
深谷駅北口ローターリー内の青淵広場の渋沢栄一像。



3月18
                          (岩崎弥太郎)
日本の海運業を最初に発展させたのが、三菱の創業者・岩崎弥太郎である。維新政府のバックアップを背景に欧米海運会社と強烈な競争に勝利して日本の海運業を独占的な地位を築いていた。

西南の役では1千万円の莫大な利益を蓄え海運業から鉱山、銀行、海上保険、倉庫などの事業を経営していた。
 同社の運賃は極めて高く船員は不親切、傲慢である。

このままでは公益に適さないと判断して、栄一は風帆船会社を創立する。東京風帆船会社は汽船に比べて運行速度の遅い帆船で三菱の汽船には対抗できないが順調あった。

それは 三菱の汽船運賃が極めて割高であった証拠である。

 ある時岩崎弥太郎は向島の酒楼柏屋に栄一を招いた。そこには芸者が12人程連座していた。

岩崎「君と僕とが堅く手を握り合って事業を経営すれば日本の実業界を思う通りに動かすことができる。これから二人で大いにやらないかね」

栄一「いや独占事業は欲に目をくらんだ利己主義だ」と二人の考えが違って物別れになる。

その後、両社の争いは運賃値下げ、速力の競争、接触事故などが発生して、このままでは両社が共倒れになることを恐れて政府の斡旋で両社を合併させて日本郵政会社が設立される。

岩崎は専制主義の個人経営。栄一は合本主義(資本主義)の会社経営。岩崎は財閥を作り、栄一は利益を株主に還元する。




3月19
                     (明治5年頃の東京養育院)
栄一は日本の福祉事業の創始者である。明治5年頃の東京はホームレス、病人、孤児、老人、障害者が徘徊していた。当時の東京府の人口の50万人うち、貧困、極貧困が60%であった。

ロシア皇太子が来日することが決定し、彼らを旧加賀藩邸の脇にある長屋の養育院に収容した。養育院は100畳の部屋に100人前後の病人が詰め込まれている。栄一は養育院の院長に就任する。91歳で亡くなるまで院長の職に就く。


寛政の改革を実行した老中・松平定信が始めた「七分積立て金」が幕府崩壊で東京に移管されていた。いまの金額で150億円の基金を養育院の医者や看護婦などの医療、ホームレスに職を持たせる職業訓練所、子供達の学問所などの設立し使用する。




3月20
       (東京都健康長寿医療センター敷地の渋沢栄一像)
明治12年から養育院は東京府の税金で運営されていた。
評論家・田口卯吉が「渋沢が余計なお節介をするから惰民が増加する。養育院いる惰民をいま一時追い出せ」と訴える。

東京府は養育院の廃止を決めるが 栄一は「困窮者を助けるのは社会にとって必要な義務であり、こうした施設が亡くなれば餓死者が街頭に横たわる惨状になるだろう。
府会がそれほどまでに無情であれば、今後は養育院を独立させ経営する策をとらなければならない」

 栄一は基金集めに、鹿鳴館でチャリティバザーを開催して6500万円の基金を集め、また 事業者に寄付を募って社会福祉事業の資金を確保しる。

東京養育院は、平成21年に東京都長寿医療センターとなり現在にいたっている。




3月21
                     (煉瓦を積んだ外装の誠之堂)
栄一の喜寿を記念して第一銀行の保養所・清和園に建てられた。
平成11年に深谷市に移設される。




3月22
                   (栄一のブロンズフレームがある大広間)



3月23
                            (清風亭)
第一銀行の保養所の清和園内に誠之堂の並んで建てられた。
平成11年に誠の堂と同じく深谷に移設される。




3月24
                                (清風亭内部)
暖炉が据えられている大広間。



             3月25
              (日本銀行に向かって立つ・渋沢栄一像)
銅像は昭和8年日本の彫刻界をリードした朝倉文夫によるもの。
昭和の後期には、故郷・八基地区の方々が年に1度、栄一の生家「中の家」の井戸水で銅像を清掃していたようです。



余談
※渋沢栄一に関する本を読んでいると、「みんながよくなければ国は富まない」の精神で500以上の会社に携わり、
教育や福祉、医療、文化などの社会事業など、91歳まで生き抜いた凄さがわかる。

※渋沢栄一翁に失礼ながら本文は「栄一」と名前で記載した。

※飛鳥山公園の渋沢資料館はコロナ禍の影響で予約制で入れなく、 また 晩香蘆等は周りが工事用のフェンスで囲われ見られなかった。
※渋沢栄一の写真は、深谷市のパンフレンドや資料館の方に許可を頂いて撮影した。
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令和3年成田山新勝寺初詣

令和3年成田山新勝寺初詣

1月1
                    (成田山新勝寺・総門)
 まさかマスク姿で新年の挨拶をすることになるとは・・・・。
コロナ禍で正月三が日をさけて成田山新勝寺に初詣に行きました。例年だと参拝者が多く総門までたどり着くのに時間がかかるが、今年は参拝者も少なくゆっくりと総門を見られる。




1月2
                       (成田山表参道)
運動会の玉入れ籠、セイロ、篠竹弁当箱など竹細工、木工品、藤製品が並んでいる。



1月3
                       (成田山表参道)
例年だとポリスDJの誘導に従いながらだらだらとあるきますが、ご覧の通り参拝者がすくない。コロナの影響は大きい。



1月4
                         (仁王門)
総門の脇で手の消毒をして階段を登り仁王門に着きます。仁王門の両側にある小さな池に石の亀に賽銭を投げる。



1月5
                          (仁王門)
仁王門の入口に「魚がし」と書かれた提灯が下がっており、出口は金具で出来た照明が下がっている。



1月6
                      (仁王門から大本堂へ)



1月7
                         (常香灯)
心臓補助のペースメーカー附近に線香の煙をゆっくりとあてる。



1月8
                          (三重塔)



1月9
                            (大本堂)
参拝者はご覧の通り少ない。ゆっくりと健康維持とコロナの終息をお願いする。



1月10
                           (大本堂)
あまりのも参拝者がすくなくて寂しい。お守り売り場の巫女さんは手持無沙太。



1月11
                          (賽銭箱附近)
例年だと賽銭箱のまえは、参拝客でごったがえしているがご覧の通りです。早くコロナの終息を願うばかりです。



1月12
                     (大本堂から三重塔)


          1月13
            (成田山公園からの平和大塔)



         1月14
                     (雄飛の滝)
例年だと人が多くて成田山公園など散策しませんが、滝や石仏を初めてみる。



1月15
                          (表参道)
午前11時ごろの表参道。



1月16
                        (うなぎ料理・川豊)
成田山初詣では、米屋の羊羹、印旛沼のうなぎを食べるのが定番です。明治43年創業の成田の元祖うなぎ専門店「川豊」にはいる。



1月17
                        (川豊・待ち時間)
うなぎ専門店「川豊」の入口で整理券をもらい、95番、50分待ち。



1月18
                         (うなぎをさばく)
店先でうなぎを捌いていました。
うなぎは、俎板の上で釘で突き刺され「うなぎがなにするんだ、いきなり」と全身で怒ってもおかまいなしに、背中からシッポまで包丁で一気に裂かれる。「あっあっひどいわ、ひどいわ」と言っているうちに包丁はギイーと音をたて一気に一丁あがり。うなぎになりたくないもんだ。




1月19
                          (上うな重)
座敷にあがり、カミさんは「上うな重・3700円」、ボクは「うな重・2700円」。我が家の序列を示している。



           1月20
                    (三橋鷹女の像)
表参道を歩いていると日本髪を結ったブロンズ像がある。何をした人なのかと思い、成田市観光協会にたち寄ると、壁にブロンズ像が浮き彫りになっていた。鷹女は大正、昭和の有名な女流俳人である。
❛白露や死んでゆく日も帯締めて❜
良く知られている俳句とのこと。



余談
※今年もボケ防止の為ブログを更新します。翌月の題材を決め、それに伴い撮影に行き、本を読んだり資料を合埋めなければなりません。ボケ防止と毎月の行動が残ります。


※コロナ感染拡大に伴い、二度目の「緊急事態宣言」がでました。今後どうすればいいのか答えの出ない悩みが続きます。焦らずに、自粛生活、密閉、密集、密接の3密、ソーシャルディスタンス、マスクをする。コロナに負けない体力の維持にスポーツジムで筋力=気力を補う。など今できることをしっかりとこなしていこうと考えます。

秋の秩父路散策

秋の秩父路散策

12月1
                   (彼岸花と秩父鉄道)
秩父鉄道の上長瀞附近です。コロナ禍の自粛生活で、気晴らしに近くの秩父をカメラ散策に行きました。



12月2
                   (ダリヤと秩父鉄道)
「道の駅・あらかわ」の側にダリヤが咲いている脇を列車が通り抜ける。



12月5
                   (秩父アミューズパーク)
公園内を貫く「スカイロード」には500本のイチョウが並んでいる。



12月3
                  (秩父アミューズパーク)
若者たちや家族連れがマスク姿で散策。



12月4
                   (秩父アミューズパーク)



                12月6
                      (秩父アミューズパーク)
ワンちゃんが乳母車に乗って紅葉狩り。「犬も歩けば棒に当たる」の諺はないようだ。



12月7
                     (秩父アミューズパーク)
カメラを向けるとポーズをする。



12月8
                     (三峯神社・三つ鳥居)
奥秩父・三峯神社にコロナ終息を願いに行く。
通常於明神型鳥居を三つ組み合わせた全国的に珍しい鳥居。三峯神社のシンボルである。




12月9
                      (三峯神社・隋身門)
重厚感の門は、随身門で1691年の建立された。 1965年の改修されている。



              12月10
                           (二本杉)
拝殿の向かう道の両側に、パーパワースポットの「二本杉」が見られる。



12月11
                       (三峯神社・本殿)
まずは御祭神に礼を尽くして参拝。御彩色に彩れた拝殿は1800年に建立され、1962年に改修されている。装飾の豪華絢爛ぶりには息を飲む。



                  12月12
                           (神社と紅葉)



                12月13
                            (神社と紅葉)



12月14
                        (神社と紅葉)



12月15
                         (神 木)
拝殿前の脇を固めるのは、樹齢800年と言われる巨大杉。神木に向かい三度深呼吸をして、手を合わせて静かに神木から「気」を授かります。



12月16
                      (日本武尊の像)
三峯神社の興りは日本武尊が国家平定勅命を受けて東征した際、この地を訪れて三峯山の美しさに感動し、イザナギノイコト と イザナミノミコトを祀りしたことから始まる。それで 日本武尊の像が設置されている。



12月17
                    (武道家・大山倍達の碑)
三峯神社は大山倍達が山籠もりで修業したゆかりの場所。1970年代の週間少年マガジンで人気を博した「空手バカ一代」の主人公。



12月18
                    (和同開珎のモニメント)
秩父、黒谷は日本最古の通貨「和同開珎」の銅の産出地。モニメントの前で女優の古高由里子さんの西武鐡道んCMが撮影された。



12月19
                       (聖神社)
「銭神様」と呼ばれる聖神社は金運に御利益がある神社としられている。「宝くじが当たりますように」と絵馬を奉納した。



12月20
                      (放鷹鑑賞会)
荒川の「川の博物館」で「放鷹鑑賞会」のイベントがあった。鷹匠と言うと鷹を飼いならし、大空へ放したり、手に止まらせたりと自由自在に操る姿を思い浮かびます。時代劇の大名の鷹かりを連想する。



12月21
                (放鷹鑑賞会)
近くで見ると威厳がり美しい。



12月22
                      (放鷹鑑賞会)
現在の鷹匠の仕事は、イベントなどで鷹の訓練を披露したり、鷹を使ってカラスやムクドリ等の「害鳥駆除」に引っ張りだこだそうです。



12月23
                     (放鷹鑑賞会)
腕に鷹を止まらせるだけでも難しいと言われています。



12月24
                     (放鷹鑑賞会)
この日は鷹匠から放された鷹は近くの木に止まるだけで周りのカラスを威嚇していた。

四国八十八カ所遍路の旅

四国八十八カ所遍路の旅

11月1
                     (21番札所・大龍寺)
ストックしていた四国八十八カ所札所の写真をお届けします。八十八カ所札所は車で1回とバイクで2回廻っている。最初は1番、2番と何気なく拝礼していたが、5番、6番と段々と捺印を納経帳に押してもらっていると心が清々しくなっていった。



11月2
                        (21番札所・大龍寺)
弘法大師が19歳の時修行された大龍寺は山に囲まれた崖の上に、弘法大師の像があります。



11月3
                         (12番札所・焼山寺)
奥深い山に囲まれた焼山寺は、仁王門から本堂までの参道は数十本の天を突くような大杉に圧倒されます。



11月4
                     (12番札所・焼山寺のシャガ)
本堂の側に真っ白いシャガが咲いていた。



11月5
                         (23番札所・薬王寺)
徳島・橘湾で火力発電所建設工事に携わり、休日は薬王寺近くの食堂に昼食を食べに行った。薬王寺は国道55号のそばにあり、参拝者も多い。



11月6
                     (24番札所・最御崎寺の石仏)
室戸岬のそばににある最御崎寺は、NHK年末の「ゆく年くる年」で何度か放送された。



11月7
                         (26番札所・金剛頂寺)



11月8
                          (26番札所・金剛頂寺)
金剛頂寺の厄除けの石段。男女の厄年の数にあわせた厄除けの石段を上ると言われている。



11月9
                       (31番札所・竹林寺附近)
竹林寺は高知市の郊外、標高145mの山頂にあり、山頂まで無心に歩く。



11月10
                     (31番札所・竹林寺の石仏)
竹林寺は「よさこい節」で歌われている、はりまや橋でカンザシを買ったお坊さんこと純信がいた寺として知られている。



           11月11
                     (36番札所・青龍寺)
青龍寺は海上安全の不動として漁民の信仰を集める。



11月12
                       (36番札所・青龍寺)
参道の途中の仁王門から花に囲まれた三重の塔が見える。



11月13
                   (36番札所・青龍寺の石仏))
寺に向かう参道は山すそをくねくねと曲がりながら急坂を登る細道で、路傍には八十八仏と呼ばれる石仏が点在し、遍路を迎えてくれる。



11月14
                      (41番札所・龍光寺)
鳥居のそばにバイクを止めて石段を登りつめたところに社殿に。遍路さんが無心に拝礼していた。



11月15
                       (41番札所・龍光寺)



11月16
                        (66番札所・雲辺寺)
大型ロープウェイで雲辺寺に向かう。ロープウェイを下りると様々な五百羅漢が迎えて食える。



11月17
                      (66番札所・雲辺寺
霧の中の雲辺寺の五百羅漢。いろいろな表情をしているから、一体一体見ていると面白いけれど、巡礼者はあまり見ない。



11月18
                         (雨中の参拝)
若者や外国人が多い。



11月19
                      (77番札所・道隆寺)
晴天の日は巡礼者の方々は笑顔である。納経帳には、お寺の名前、朱印を各自に押してもらうため、バスで巡礼される方々の後ろになると、待ち時間がながい。



11月20
                       (77番札所・道隆寺)
全員で般若心経を読経される。一緒に小さい声を出す。



11月21
                       (77番札所・道隆寺)
バイク巡礼は、山奥のお寺の駐車場が狭くて参拝者に手伝ってもらいながらUターンをしたこともある。



11月22
                        (46番札所・浄瑠璃寺)
小さいお寺であうが清々しい気持ちになった。



11月23
                        (46番札所・浄瑠璃寺)



11月24
                          (63番札所・吉祥寺)
山寺の境内に静かに百八の音色が流れる。



11月25
                      (54番札所・延命寺)



           11月26
                     (87番札所・長尾寺)
源義経の愛妾・静御前は義経が平泉で死んだことを知り、剃髪した髪を埋めた静御前剃髪塚がある。



            11月27
                      (87番札所・長尾寺)



11月28
                         (祈る)



11月29
              (遍路さんのシンボル金剛杖)
杖は弘法大師の分身とされている。四国八十八カ所では「同行二人」とい言葉がもちいられていうが、これは「私は弘法大師と二人連れで参拝をしている」と言われていう。



11月30
              (88番札所・大窪寺の納経帳)
四国八十八カ所札所の結願寺・大窪寺。泣いている遍路さんもおられた。

※お礼参りとして高野山にも参拝した。

バイク旅・本州、四国、九州

バイク・ツーリング:本州、四国、九州

10月1
                    (中央線・高円寺にて)
コロナの自粛生活で撮影に行けなく、本州、四国、九州のバイクツーリングの蔵出し写真を掲載。
 中央線・高円寺はいろいろな面白き商店が並んでいる。写真を撮りながら路地裏にはいったらライダーたちが集まっていた。その中のタトーを入れた女性ライダーに声をかけ撮らしてもらった。NHK学園の写真展示会で入賞した。




10月2
                       (モトクロス)
自宅から40分程で入間・オフロードヴィレッジがある。全日本モトクロス選手権大会を撮影。



10月3
                       (龍飛崎灯台・青森)
青森・龍飛崎:竜が飛び回っているかのような強風が吹き荒れることから龍飛崎と名がついたと言われる。



10月4
              (津軽海峡冬景色の歌碑・青森)
龍飛岬の一番いい場所に「津軽海峡冬景色」の歌碑がある。二番の歌詞が一番よりも三番よりも大きく書かれている。❛ごらんあれが龍飛岬北のはずれよ❜というやつだ。そこに大きな赤いボタンがあって押せばその二番からの歌が大声で流れる。その夜岬のそばの民宿に泊まったら夜中にクルマでやって来る何組ものバカカップルがひっきりなしにボタンを押すものだから一晩中「ジャジャジャジャーン」に苦しめられ また バイクをイタズラされないか起きて見に行った。龍飛崎では静かに海や海峡を眺め、そこに吹く風の音や激しい波の音を聞きたい。



10月5
                       (イカの一夜干し・青森)
龍飛崎から国道339号を青森に向かい、途中の義経寺附近



10月6
                        (大船渡漁船用重油タンク・岩手)
50年前に大船渡湾の高台に漁船用重油タンク建設に携わった。東日本大震災被後にバイクで行ったら高台のタンクは残っていたが、桟橋からの配管などは流されていた。



10月7
          (津波で陸に流された「第18共徳丸:気仙沼)
東日本大震災後被災地には7回程行っている。確実に一歩一歩復旧、復興している。東北の人達のひた向きさ、粘り強さ、忍耐性の強さだと思う。




10月8
                          (能登半島)
能登半島、国道249号ねぶた温泉付近。台風通過後夕日が美しい。


10月9
                         (能登半島
ツールド能登



10月10
                         (角島大橋)
下関から日本海側の国道191を走り標識導かれながら角島展望台に着く。三菱、スズキなどのCMに使われている。



10月11
                      (余部鉄橋)
山陰本線・余部鉄橋は高さ41m。まさに空中を走る。



10月12
                       (余部鉄橋)
昭和61年12月の列車転落事故を契機に、掛け替え工事が行わて現在はコンクリートの橋桁に代わっている。



10月13
                         (大鳴門橋・徳島)
大鳴門橋のゲートにバイクを乗りつけ、あまりのもモタモタしているから、通行兼をしばらく渡してくれなかった。大鳴門橋を走り始めると途中から横風が強くて吹き飛ばされそうになる。



10月14
                       (工事中の明石大橋・香川)
工事中の明石大橋を見ていたら「工事関係の人ですか」と魚師に声を掛けられる。雰囲気が工事屋に見えたのかな。



10月15
                      (大豊の杉の大杉・徳島)
日本一の「杉の大杉」推定樹齢3000年と言われている。森閑とした境内で大杉の下に佇むと太古からの鼓動が聞こえる。



10月16
                     (美空ひばりの歌碑・高知)
ここに美空ひばりの歌碑が何故あるのだろうと思った。昭和22年巡業中にバス事故に遭い、九死に一生を得る。一ケ月の療養後「杉の大杉」に「日本一の歌手になれるように・・・」と願いを掛けたとの事。




10月17
                          (中島慎太郎の像:徳島)
京都、寺田屋で坂本竜馬と一緒に殺害された中島慎太郎。桂浜の竜馬の方を向いている。



10月18
                            (京桂峠:徳島)
徳島から高知に抜ける国道439(通称・与作街道)の中央付近の京桂峠。ライダーの憧れの峠。



10月19
                         (大歩危海峡:高知)
四国一の観光地。



10月20
                         (国道195号:徳島)
国道195.奥物部。大きな目の監視でスピードは出せない。


10月21
                 (甲浦湾でのフェリ座礁:徳島)
台風の影響で桟橋に接岸直前に座礁する。ワイヤーロープを使い曳航船で引っ張っかが成功しなく、次の台風で動いた。



10月22
                           (札所・八坂寺)
四国八十八カ所札所を休みを利用して回った。



10月23
                           (仏の定跡)



10月24
                           (巡礼者)



10月25
                         (紫電改)
紫電改は零戦に代わる新鋭機として終戦間地かに開発された。海軍の中でも最も優れた戦闘機と言われている。昭和53年久良湾で発見された。



10月26
                   (小豆島・二十四の瞳の像)
高松からのフェリーが土荘湾に入港すると二十四の瞳の「平和の群像」が迎えてくれる。



10月27
                          (岬の分教場)
二十四の瞳の映画村。イベントをやっていた。



10月28
                        (野良時計:徳島)
喉かな田園地帯にのぞむレトロな白亜の手作り時計台


10月29
                          (関門橋:山口)
壇ノ浦PAから関門橋。瀬戸大橋、明石大橋、天草五橋など日本の橋梁技術は世界一と思う。



10月30
                        (巌流島:下関)
彦島から巌流島まで定期船に乗船して関門海峡を行き交う大小さまざまな船を眺めていた。巌流島はご存知、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の島。佐々木小次郎像は山口・錦帯橋の端とに設置されている。



10月31
                   (鹿屋航空自衛隊基地)
鹿屋航空基地からは海軍神風特攻機が沖縄の敵艦に向かって飛び立った。資料館には特攻隊員の遺書がある。二十歳そこそこの青年が、家族の為、国の為に飛びたったことを想うと胸が裂ける。



10月32
                           (零戦)
平成4年3月と10月に、錦江湾で2機の零戦が漁船の網にかかって引き上げられた。海中に長く眠っていえ損傷も激しい2機の零戦を互いに補う形で一機に復元されている。



10月33
                       (佐多岬・鹿児島)
大隅半島、佐多岬でバイクを下りて周りの写真を撮っていたらイノシシの親子が餌を貰いにあらわ得る。



             10月34
           (聖フランシスコ・ザビエル記念教会:平戸)
子供の時から行きたかった歴史とロマンの平戸に到着。



10月35
                       (教会とお寺)
映画「男はつらいよ。寅次郎頑張れ!」で寅さんと藤村志保が笑いながら歩く。撮影場所をヤットさがした。



10月36
                        (バイク仲間)
大内宿にてバイク仲間と。





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