渋沢栄一の足跡をおって
渋沢栄一の足跡を追って

渋沢栄一肖像
「日本の資本主義の父」と言われる渋沢栄一が新1万円札の顔になる。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」など、坂本竜馬や西郷隆盛等はカッコウ良く見えた。 明治は薩長を中心に語られるが、栄一のような人がいたから財政や経済の発展があったと思う。
「数人の資本家が儲かるのではなく、みんなが良くなければ国は富まない」との精神である。栄一が関わった約500の会社、団体があると言われている。
また 教育や福祉、医療、文化などの社会事業、民間の立場で経済外交に携わり、ノーベル平和賞に2度の候補に推薦された。栄一の生誕地が自宅から近いこともあり、どのような人物か足跡を追った。

(渋沢栄一記念館)
渋沢栄一は1840年武蔵の国棒沢群血洗島(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれた。血洗島とは物騒な地名の由来は、昔あった合戦で武士が切り落とされた片手を洗ったなどと諸説がある。
渋沢栄一記念館は、書や手紙をはじめ当時の写真、伝記資料等が展示されている。

(旧渋沢邸・正面)
父・市郎右衛門は、米、麦、養蚕等を生業にしていたが、藍玉作りに力をいれていた。
藍玉は、ほおずきの葉を一回り大きくしたような「藍の葉」が50cm~60cm程の丈に育ったら、農家から藍葉を買い入れ、庭で裁断機にかけ、茎と葉を選別する。選別された葉は天日に干して乾燥され保存される。
そして 保存された藍葉を水だけかけて発酵を施し、5日~7日ごとに水を打ち混ぜる「切り返し」という作業をくり返して、灰汁を入れ、
臼で突くと黒い餅のような物が出来る。それを20cmほどの団子にしたのが藍玉である。父は藍玉の製造技術に優れ、信州、上越、上州方面の得意先の紺屋に卸した。

(中の家の若き日の栄一像)
栄一が14歳頃になると一人で近隣の村々を廻って藍葉の買い付けや藍玉の得意先の紺屋をまわり商売の面白さを体験してゆく。

(栄一が寝泊りした部屋)
栄一が藍玉を紺屋の得意先に卸しに行くときは、10貫目の藍玉の俵を馬の背に4俵積み、雪の峠道を越えて信州の馴染みの紺屋に届けることもあった。
渋沢家に残る藍玉の売上台帳によれば、顧客である紺屋の数は100軒程で一軒当たりの売上高が平均108両であったといわれているから年間総売上高は1万両あったことになる。藍葉の買い付けから藍玉の卸しまで携わり商売が面白くなりだした14歳から20歳の頃である。

(24歳頃の栄一)
アメリカ東印度艦隊を率いてペリーが浦賀に入稿。幕府の古い政治、体制が行き詰まり尊王攘夷運動がおこる。
栄一も尊王攘夷運動に深く共鳴して同士を募り、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちなどの計画を立ち上げる。
しかし 京都情勢の探索から戻った親友の尾高長七郎の説得で計画を断念する。
その後 一橋家用心、平岡円四郎の仕官の誘いの言葉に、倒幕を心ざしていたが、熟考のすえ、一橋家に仕官する。そして 一橋慶喜が15代将軍となり幕府側の要人になる。

(パリ万博博覧会にて)
パリ万博覧会に15代将軍となった徳川慶喜の実弟昭武が派遣されることになり栄一は随行員の一員として同行する。
慶応3年1月11日、徳川昭武一行29人はフランス商船アルヘー号に乗り込み朝9時半に神戸港を出航。途中サイゴン、シンガポール、スエズ等に寄港して3月7日に、日本を出てから55日目でパリに到着する。
パリ・マルセイユに上陸して西欧文化の実態を目にして驚嘆を重ねるばかりである。栄一は想像を絶する西欧文化の姿に気おくれされながらも、好奇心を火のように燃やしていた。パリの夜景は別世界である。
路傍には青、紅、紫、白、金、銀などのさまざまな色彩のギヤマンに包まれた瓦斯燈が昼間のような光芒を放ち通行人がにぎやかに行き交う。パリ全市に水道と瓦斯道が通じていること。ー栄一はどうすればこのような文物が富み栄える都が出来るのかと思う。
軍港でドックの軍艦、諸工作機械、発砲訓練、溶鉱炉、製鉄所、反射炉などの設備を見て回り、また 凱旋門、シャンゼリゼ博物館、植物園、動物園、そして 大病院を見学した。栄一はどうすればこのような富が栄える都市が出来るのか・・・。

(シルクハットを被った栄一)
銀行家・フロリ・ヘラルトから資本主義の仕組みを詳細に教えられ乾いた砂が水を吸うように貧欲に覚える。
フロリ・ヘラルトは銀行家としての豊富な体験と膨大な知識を惜しみなく栄一に伝える。銀行の仕組みはもとより、証券取引所、株式、公債など。まったく知識のない栄一が充分納得するまで親切丁寧に教える。
そのうえで銀行、証券取引所へ栄一を案内して実際の業務をみせて理解させた。栄一を導いたフロリ・ヘラルトは日本に資本主義をうちたてる原動力となった恩人である。
その頃、日本では大政奉還により体制が変わり、明治新政府から帰国命令がでて1年9ケ月ぶりに帰国する。

(実業界へ)
帰国して大蔵省に入り、手がけた仕事は多岐にわたる。廃藩置県の後始末、租税制度、郵便制度、貨幣だっ換、公債発行などと多岐にわたる。
大蔵省を辞して実業界に身をゆだねる。第一国立銀行(現みずほ銀行)、王子製紙、清水建設などの500社ほどに携わる。

(ドイツ人煉瓦技師チーゼの住宅兼事務所)
栄一らによって明治10年創立された日本煉瓦製造㈱は、日本最初の機械式煉瓦製造を行い、東京駅丸の内駅舎、碓氷峠鉄道橋梁等の建設に使用された。
ドイツ人煉瓦技師ナスチェンテス・チーゼの指導のもと煉瓦焼成室が長円状に連なるホフマン輪壺と乾燥室などを完成させる。

(煉瓦資料室)
会社設立からの歴史が分かります。会社設立に関わった栄一ら5人の写真と名前、
そして 東京駅丸の内駅舎の設計に携わった辰野金吾の名もみられる。

(ホフマン輪壺の内部)
煉瓦製造要領は
①壺つめ:壺の内部を18部屋に分け、1部屋に約18000個の煉瓦を詰める。
②投炭:燃料である粉炭を壺内に向け投入。一度点火すると3交代制で火を絶やすことなく煉瓦を焼く。
③乾燥部室で煉瓦素地を乾燥させる。
このような作業工程で煉瓦が焼かれる。

(備前梁鉄橋)
工場で焼かれた煉瓦は、小山川から利根川に下り江戸川を経て隅田川を船で東京方面へ運ばれたが船は気象条件に左右されるなど効率が悪く、深谷駅から工場までの約4kmの日本初の専用鉄道が敷かれた。

(遊歩道・あかね通り)
深谷駅から工場までの会社専用鉄道跡は遊歩道となって、年配の方や子供連れ等がゆっくりと散歩している。

(東京駅に使用された煉瓦の請求書)
東京液丸の内駅舎は辰野金吾により明治36年に設計にはいり、大正3年完成した。使用された煉瓦は8,332,000個を納入した。金額は・・・と記載されている。

(深谷駅)
深谷駅の現駅舎は明治16年の開業から三代目となり、ミニ東京駅とも呼ばれている。

(渋沢栄一像)
深谷駅北口ローターリー内の青淵広場の渋沢栄一像。

(岩崎弥太郎)
日本の海運業を最初に発展させたのが、三菱の創業者・岩崎弥太郎である。維新政府のバックアップを背景に欧米海運会社と強烈な競争に勝利して日本の海運業を独占的な地位を築いていた。
西南の役では1千万円の莫大な利益を蓄え海運業から鉱山、銀行、海上保険、倉庫などの事業を経営していた。
同社の運賃は極めて高く船員は不親切、傲慢である。
このままでは公益に適さないと判断して、栄一は風帆船会社を創立する。東京風帆船会社は汽船に比べて運行速度の遅い帆船で三菱の汽船には対抗できないが順調あった。
それは 三菱の汽船運賃が極めて割高であった証拠である。
ある時岩崎弥太郎は向島の酒楼柏屋に栄一を招いた。そこには芸者が12人程連座していた。
岩崎「君と僕とが堅く手を握り合って事業を経営すれば日本の実業界を思う通りに動かすことができる。これから二人で大いにやらないかね」
栄一「いや独占事業は欲に目をくらんだ利己主義だ」と二人の考えが違って物別れになる。
その後、両社の争いは運賃値下げ、速力の競争、接触事故などが発生して、このままでは両社が共倒れになることを恐れて政府の斡旋で両社を合併させて日本郵政会社が設立される。
岩崎は専制主義の個人経営。栄一は合本主義(資本主義)の会社経営。岩崎は財閥を作り、栄一は利益を株主に還元する。

(明治5年頃の東京養育院)
栄一は日本の福祉事業の創始者である。明治5年頃の東京はホームレス、病人、孤児、老人、障害者が徘徊していた。当時の東京府の人口の50万人うち、貧困、極貧困が60%であった。
ロシア皇太子が来日することが決定し、彼らを旧加賀藩邸の脇にある長屋の養育院に収容した。養育院は100畳の部屋に100人前後の病人が詰め込まれている。栄一は養育院の院長に就任する。91歳で亡くなるまで院長の職に就く。
寛政の改革を実行した老中・松平定信が始めた「七分積立て金」が幕府崩壊で東京に移管されていた。いまの金額で150億円の基金を養育院の医者や看護婦などの医療、ホームレスに職を持たせる職業訓練所、子供達の学問所などの設立し使用する。

(東京都健康長寿医療センター敷地の渋沢栄一像)
明治12年から養育院は東京府の税金で運営されていた。
評論家・田口卯吉が「渋沢が余計なお節介をするから惰民が増加する。養育院いる惰民をいま一時追い出せ」と訴える。
東京府は養育院の廃止を決めるが 栄一は「困窮者を助けるのは社会にとって必要な義務であり、こうした施設が亡くなれば餓死者が街頭に横たわる惨状になるだろう。
府会がそれほどまでに無情であれば、今後は養育院を独立させ経営する策をとらなければならない」
栄一は基金集めに、鹿鳴館でチャリティバザーを開催して6500万円の基金を集め、また 事業者に寄付を募って社会福祉事業の資金を確保しる。
東京養育院は、平成21年に東京都長寿医療センターとなり現在にいたっている。

(煉瓦を積んだ外装の誠之堂)
栄一の喜寿を記念して第一銀行の保養所・清和園に建てられた。
平成11年に深谷市に移設される。

(栄一のブロンズフレームがある大広間)

(清風亭)
第一銀行の保養所の清和園内に誠之堂の並んで建てられた。
平成11年に誠の堂と同じく深谷に移設される。

(清風亭内部)
暖炉が据えられている大広間。

(日本銀行に向かって立つ・渋沢栄一像)
銅像は昭和8年日本の彫刻界をリードした朝倉文夫によるもの。
昭和の後期には、故郷・八基地区の方々が年に1度、栄一の生家「中の家」の井戸水で銅像を清掃していたようです。
余談
※渋沢栄一に関する本を読んでいると、「みんながよくなければ国は富まない」の精神で500以上の会社に携わり、
教育や福祉、医療、文化などの社会事業など、91歳まで生き抜いた凄さがわかる。
※渋沢栄一翁に失礼ながら本文は「栄一」と名前で記載した。
※飛鳥山公園の渋沢資料館はコロナ禍の影響で予約制で入れなく、 また 晩香蘆等は周りが工事用のフェンスで囲われ見られなかった。
※渋沢栄一の写真は、深谷市のパンフレンドや資料館の方に許可を頂いて撮影した。

渋沢栄一肖像
「日本の資本主義の父」と言われる渋沢栄一が新1万円札の顔になる。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」など、坂本竜馬や西郷隆盛等はカッコウ良く見えた。 明治は薩長を中心に語られるが、栄一のような人がいたから財政や経済の発展があったと思う。
「数人の資本家が儲かるのではなく、みんなが良くなければ国は富まない」との精神である。栄一が関わった約500の会社、団体があると言われている。
また 教育や福祉、医療、文化などの社会事業、民間の立場で経済外交に携わり、ノーベル平和賞に2度の候補に推薦された。栄一の生誕地が自宅から近いこともあり、どのような人物か足跡を追った。

(渋沢栄一記念館)
渋沢栄一は1840年武蔵の国棒沢群血洗島(現在の深谷市血洗島)の農家に生まれた。血洗島とは物騒な地名の由来は、昔あった合戦で武士が切り落とされた片手を洗ったなどと諸説がある。
渋沢栄一記念館は、書や手紙をはじめ当時の写真、伝記資料等が展示されている。

(旧渋沢邸・正面)
父・市郎右衛門は、米、麦、養蚕等を生業にしていたが、藍玉作りに力をいれていた。
藍玉は、ほおずきの葉を一回り大きくしたような「藍の葉」が50cm~60cm程の丈に育ったら、農家から藍葉を買い入れ、庭で裁断機にかけ、茎と葉を選別する。選別された葉は天日に干して乾燥され保存される。
そして 保存された藍葉を水だけかけて発酵を施し、5日~7日ごとに水を打ち混ぜる「切り返し」という作業をくり返して、灰汁を入れ、
臼で突くと黒い餅のような物が出来る。それを20cmほどの団子にしたのが藍玉である。父は藍玉の製造技術に優れ、信州、上越、上州方面の得意先の紺屋に卸した。

(中の家の若き日の栄一像)
栄一が14歳頃になると一人で近隣の村々を廻って藍葉の買い付けや藍玉の得意先の紺屋をまわり商売の面白さを体験してゆく。

(栄一が寝泊りした部屋)
栄一が藍玉を紺屋の得意先に卸しに行くときは、10貫目の藍玉の俵を馬の背に4俵積み、雪の峠道を越えて信州の馴染みの紺屋に届けることもあった。
渋沢家に残る藍玉の売上台帳によれば、顧客である紺屋の数は100軒程で一軒当たりの売上高が平均108両であったといわれているから年間総売上高は1万両あったことになる。藍葉の買い付けから藍玉の卸しまで携わり商売が面白くなりだした14歳から20歳の頃である。

(24歳頃の栄一)
アメリカ東印度艦隊を率いてペリーが浦賀に入稿。幕府の古い政治、体制が行き詰まり尊王攘夷運動がおこる。
栄一も尊王攘夷運動に深く共鳴して同士を募り、高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちなどの計画を立ち上げる。
しかし 京都情勢の探索から戻った親友の尾高長七郎の説得で計画を断念する。
その後 一橋家用心、平岡円四郎の仕官の誘いの言葉に、倒幕を心ざしていたが、熟考のすえ、一橋家に仕官する。そして 一橋慶喜が15代将軍となり幕府側の要人になる。

(パリ万博博覧会にて)
パリ万博覧会に15代将軍となった徳川慶喜の実弟昭武が派遣されることになり栄一は随行員の一員として同行する。
慶応3年1月11日、徳川昭武一行29人はフランス商船アルヘー号に乗り込み朝9時半に神戸港を出航。途中サイゴン、シンガポール、スエズ等に寄港して3月7日に、日本を出てから55日目でパリに到着する。
パリ・マルセイユに上陸して西欧文化の実態を目にして驚嘆を重ねるばかりである。栄一は想像を絶する西欧文化の姿に気おくれされながらも、好奇心を火のように燃やしていた。パリの夜景は別世界である。
路傍には青、紅、紫、白、金、銀などのさまざまな色彩のギヤマンに包まれた瓦斯燈が昼間のような光芒を放ち通行人がにぎやかに行き交う。パリ全市に水道と瓦斯道が通じていること。ー栄一はどうすればこのような文物が富み栄える都が出来るのかと思う。
軍港でドックの軍艦、諸工作機械、発砲訓練、溶鉱炉、製鉄所、反射炉などの設備を見て回り、また 凱旋門、シャンゼリゼ博物館、植物園、動物園、そして 大病院を見学した。栄一はどうすればこのような富が栄える都市が出来るのか・・・。

(シルクハットを被った栄一)
銀行家・フロリ・ヘラルトから資本主義の仕組みを詳細に教えられ乾いた砂が水を吸うように貧欲に覚える。
フロリ・ヘラルトは銀行家としての豊富な体験と膨大な知識を惜しみなく栄一に伝える。銀行の仕組みはもとより、証券取引所、株式、公債など。まったく知識のない栄一が充分納得するまで親切丁寧に教える。
そのうえで銀行、証券取引所へ栄一を案内して実際の業務をみせて理解させた。栄一を導いたフロリ・ヘラルトは日本に資本主義をうちたてる原動力となった恩人である。
その頃、日本では大政奉還により体制が変わり、明治新政府から帰国命令がでて1年9ケ月ぶりに帰国する。

(実業界へ)
帰国して大蔵省に入り、手がけた仕事は多岐にわたる。廃藩置県の後始末、租税制度、郵便制度、貨幣だっ換、公債発行などと多岐にわたる。
大蔵省を辞して実業界に身をゆだねる。第一国立銀行(現みずほ銀行)、王子製紙、清水建設などの500社ほどに携わる。

(ドイツ人煉瓦技師チーゼの住宅兼事務所)
栄一らによって明治10年創立された日本煉瓦製造㈱は、日本最初の機械式煉瓦製造を行い、東京駅丸の内駅舎、碓氷峠鉄道橋梁等の建設に使用された。
ドイツ人煉瓦技師ナスチェンテス・チーゼの指導のもと煉瓦焼成室が長円状に連なるホフマン輪壺と乾燥室などを完成させる。

(煉瓦資料室)
会社設立からの歴史が分かります。会社設立に関わった栄一ら5人の写真と名前、
そして 東京駅丸の内駅舎の設計に携わった辰野金吾の名もみられる。

(ホフマン輪壺の内部)
煉瓦製造要領は
①壺つめ:壺の内部を18部屋に分け、1部屋に約18000個の煉瓦を詰める。
②投炭:燃料である粉炭を壺内に向け投入。一度点火すると3交代制で火を絶やすことなく煉瓦を焼く。
③乾燥部室で煉瓦素地を乾燥させる。
このような作業工程で煉瓦が焼かれる。

(備前梁鉄橋)
工場で焼かれた煉瓦は、小山川から利根川に下り江戸川を経て隅田川を船で東京方面へ運ばれたが船は気象条件に左右されるなど効率が悪く、深谷駅から工場までの約4kmの日本初の専用鉄道が敷かれた。

(遊歩道・あかね通り)
深谷駅から工場までの会社専用鉄道跡は遊歩道となって、年配の方や子供連れ等がゆっくりと散歩している。

(東京駅に使用された煉瓦の請求書)
東京液丸の内駅舎は辰野金吾により明治36年に設計にはいり、大正3年完成した。使用された煉瓦は8,332,000個を納入した。金額は・・・と記載されている。

(深谷駅)
深谷駅の現駅舎は明治16年の開業から三代目となり、ミニ東京駅とも呼ばれている。

(渋沢栄一像)
深谷駅北口ローターリー内の青淵広場の渋沢栄一像。

(岩崎弥太郎)
日本の海運業を最初に発展させたのが、三菱の創業者・岩崎弥太郎である。維新政府のバックアップを背景に欧米海運会社と強烈な競争に勝利して日本の海運業を独占的な地位を築いていた。
西南の役では1千万円の莫大な利益を蓄え海運業から鉱山、銀行、海上保険、倉庫などの事業を経営していた。
同社の運賃は極めて高く船員は不親切、傲慢である。
このままでは公益に適さないと判断して、栄一は風帆船会社を創立する。東京風帆船会社は汽船に比べて運行速度の遅い帆船で三菱の汽船には対抗できないが順調あった。
それは 三菱の汽船運賃が極めて割高であった証拠である。
ある時岩崎弥太郎は向島の酒楼柏屋に栄一を招いた。そこには芸者が12人程連座していた。
岩崎「君と僕とが堅く手を握り合って事業を経営すれば日本の実業界を思う通りに動かすことができる。これから二人で大いにやらないかね」
栄一「いや独占事業は欲に目をくらんだ利己主義だ」と二人の考えが違って物別れになる。
その後、両社の争いは運賃値下げ、速力の競争、接触事故などが発生して、このままでは両社が共倒れになることを恐れて政府の斡旋で両社を合併させて日本郵政会社が設立される。
岩崎は専制主義の個人経営。栄一は合本主義(資本主義)の会社経営。岩崎は財閥を作り、栄一は利益を株主に還元する。

(明治5年頃の東京養育院)
栄一は日本の福祉事業の創始者である。明治5年頃の東京はホームレス、病人、孤児、老人、障害者が徘徊していた。当時の東京府の人口の50万人うち、貧困、極貧困が60%であった。
ロシア皇太子が来日することが決定し、彼らを旧加賀藩邸の脇にある長屋の養育院に収容した。養育院は100畳の部屋に100人前後の病人が詰め込まれている。栄一は養育院の院長に就任する。91歳で亡くなるまで院長の職に就く。
寛政の改革を実行した老中・松平定信が始めた「七分積立て金」が幕府崩壊で東京に移管されていた。いまの金額で150億円の基金を養育院の医者や看護婦などの医療、ホームレスに職を持たせる職業訓練所、子供達の学問所などの設立し使用する。

(東京都健康長寿医療センター敷地の渋沢栄一像)
明治12年から養育院は東京府の税金で運営されていた。
評論家・田口卯吉が「渋沢が余計なお節介をするから惰民が増加する。養育院いる惰民をいま一時追い出せ」と訴える。
東京府は養育院の廃止を決めるが 栄一は「困窮者を助けるのは社会にとって必要な義務であり、こうした施設が亡くなれば餓死者が街頭に横たわる惨状になるだろう。
府会がそれほどまでに無情であれば、今後は養育院を独立させ経営する策をとらなければならない」
栄一は基金集めに、鹿鳴館でチャリティバザーを開催して6500万円の基金を集め、また 事業者に寄付を募って社会福祉事業の資金を確保しる。
東京養育院は、平成21年に東京都長寿医療センターとなり現在にいたっている。

(煉瓦を積んだ外装の誠之堂)
栄一の喜寿を記念して第一銀行の保養所・清和園に建てられた。
平成11年に深谷市に移設される。

(栄一のブロンズフレームがある大広間)

(清風亭)
第一銀行の保養所の清和園内に誠之堂の並んで建てられた。
平成11年に誠の堂と同じく深谷に移設される。

(清風亭内部)
暖炉が据えられている大広間。

(日本銀行に向かって立つ・渋沢栄一像)
銅像は昭和8年日本の彫刻界をリードした朝倉文夫によるもの。
昭和の後期には、故郷・八基地区の方々が年に1度、栄一の生家「中の家」の井戸水で銅像を清掃していたようです。
余談
※渋沢栄一に関する本を読んでいると、「みんながよくなければ国は富まない」の精神で500以上の会社に携わり、
教育や福祉、医療、文化などの社会事業など、91歳まで生き抜いた凄さがわかる。
※渋沢栄一翁に失礼ながら本文は「栄一」と名前で記載した。
※飛鳥山公園の渋沢資料館はコロナ禍の影響で予約制で入れなく、 また 晩香蘆等は周りが工事用のフェンスで囲われ見られなかった。
※渋沢栄一の写真は、深谷市のパンフレンドや資料館の方に許可を頂いて撮影した。
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